日本の伝統芸能とは
事務局長 森田による伝統芸能の掴み方、楽しみ方

その1 能と狂言:なんでセットで演じられるの?

能の主人公の多くは幽霊です。あの世からやってきて、あの世に帰っていく。すり足でのハコビ(歩行)も、かつて人間であったが、今は人間でないという役が演じているためと考えると納得がいきませんか?
一方の狂言では、生きている人しか登場しません。今を生きる我々にも日常的に起こるようなちょっとした失敗 ー恰好つけて知ったかぶりをしたり偉そうにした人が、後で化けの皮がはがれ「ゆるしてくれ~」と逃げるのを「やるまいぞ、やるまいぞ」と追いかけられて終わる、というのが多くのパターンー を笑いに包んで表現します。

そして、この能と狂言。狂言だけで演じるのはOKなのに、能だけで演じられるのは本来NG。それは何故なのか?
能だけを鑑賞し、あの世の世界感に浸って帰宅することは良くないこと、とする考え方が古くより有ったそうです。能であの世の情念の世界を楽しむと同時に、現在に生きる我々に教訓にもなる日常的な喜劇を鑑賞し、現在にも感覚を戻すということが必要。と考えられていた為だそうです。 

その2 文楽:どうしていつも誰かが死ぬの?

人形浄瑠璃文楽では、命を懸けた忠義や恋が語られます。
文楽と歌舞伎では、同じ物語が演じられることが多いのですが、歌舞伎役者が1人で演じるところを、文楽では科白は大夫が語り、動きは人形、それも1体の人形を3人で動かすという4人の共同作業で演じられます。
文楽の語りは、情感たーっぷりに、これでもか、これでもか、と観客の感情が高ぶるように語られます。情感たっぷりの科白が、生きてはいない人形の動きに合わせて語られる。
お客は生き物でない人形だからこそ、物語の世界に感情移入することがたやすくなり、涙を誘われます。
 
そう、私が思うには、文楽は泣かせてなんぼの癒しの芸能。通常にはあり得ないような命を懸けた究極の選択のドラマの世界に浸らせ、涙を流させる。お客は涙を流すことで、鑑賞後にはリフレッシュしたり、自分の感情が癒されているのを発見する。そんな楽しみ方を提供する為に、ドキツイ、命を張った芝居が演じられるのではないか。文楽でいつも誰かが死ぬのは、そんな理由からではないか?と私は考えます。

その3 舞と踊り:どう違うの?

日本舞踊と呼ばれるジャンルの中に、主に江戸時代に流行した長唄や清元を伴奏音楽として踊られる踊りと、地歌を伴奏音楽として舞われる舞があります。
日本舞踊は、歌舞伎との関係が深く、歌舞伎の振付は日本舞踊家が担当し、歌舞伎役者が日本舞踊の流派のお家元だったりもします。ステージで大観衆を前にして踊る技術が発達し、お客様に何を表現しているのかが伝わってなんぼ、楽しませてなんぼの世界と言えます。

一方の舞は、古くは天皇などの高貴な身分の方の代わりに、神様に祈りをささげる為に舞を舞ったと言われていますが、お座敷文化が発展した頃から、少人数の前で、お食事を頂いている殿方の前でホコリを立てないように舞う舞として伝えられてきました。地歌の意味は、誰が作詞作曲したか分からないような古くから伝わる地元の歌。中竿三味線を演奏しながら裏声を使わない飾り気のない歌い方で歌われます。失恋をした女の人の心をテーマとする曲が多く、一見愁傷な女心が舞われますが、歌詞とは裏腹に振付はアピールしまくり。「私、ふられちゃったぁ」と言いながら色っぽい所作がたっぷり入った振付を舞うことで、お酒の入った殿方を喜ばせる。そんなお座敷文化が色濃く反映された世界です。

その4 役者の身体:やっぱり特別なの?

某国宝の狂言役者さんがある手術から退院されたのですが、リハビリで面白い体験をしたと話してくださいました。寝転がり、棒を掴んで持ち上げる動作で、通常の人ならば、息を止めて行うのに、あなたは呼吸を止めずに持ち上げている。棒を掴むのに、多くの人は手のひらに深く挟むところを、あなたは指先で掴んでいる。あなたは何者ですか??
 
この役者は、「息のつめひらき」という能役者・観世寿夫の言葉が、実際にどんな呼吸について言っているのかを知りたいと思った大学院生だった私の、実験での検証に協力してくださった大恩人。そして国宝の身体で行われていた呼吸は、どんな所作、舞であろうと、常に規則的で周期的に安定していたのでした。一方で、成人してからプロになられた役者の呼吸は、所作毎に特有の呼吸パターンを持っていました。すなわちスポーツの上級者と同じ結果。芸の達人の身体はスポーツの身体を超えるのだな、と理解したのでした。

その5 組踊:沖縄の伝統芸能、世界無形文化遺産

組踊(くみおどり)って皆さんご存知ですか?かつて琉球王朝が栄えた時に、中国の明や清、そして本土からの王の使いが来た時にもてなす為に作られ発展した、歌舞劇です。歌三線の伴奏、特有のメロディアスな唱え(科白)、そして踊りで演じられます。外国から来た役人たちは、数か月、長くて半年以上滞在したそう。その間、大切なお客様を飽きさせてはいけないという事で、琉球王朝では、踊奉行をリーダーとした男性の舞踊家、演奏家達を武士の身分で抱えていました。
玉城朝薫という人が組踊を作ったと言われていますが、能楽や歌舞伎などからもヒントを得て、能作品の組踊版とも言える作品を作り、それらはいまだに上演されています。
東京では、国立劇場や横浜能楽堂で年1回程度上演されていますが、国立劇場おきなわ(平成16年設立)では月に2,3回上演されています。能楽堂の背景である鏡板の代わりに、紅型染の松や竹、鶴が染められた布幕を背景に上演されますが、兎に角、舞台が色鮮やか。登場人物は白塗りの化粧をしてます。皆さんも是非見てみてください。

その6 組踊:歩み(すり足歩行の不思議)

その5で組踊の歴史的なことについて書きましたが、ここでは組踊の身体技法について。歌舞伎役者が歌舞伎を演じる身体を日本舞踊のお稽古によって作るように、組踊の役者は琉球舞踊で作ります。組踊は歴史的には男性のみしか演じることが許されておりませんが、琉球舞踊は女性もOK。沢山の女性の琉球舞踊家がいらっしゃいます。
琉球舞踊の動作の特徴は、上半身を前傾させた姿勢と美しい手指の所作。そして能楽と同様にすり足歩行の「歩み」が何よりも大切とのこと。
 
私が初めて某国宝の役者が舞う琉球舞踊の舞台を拝見した時、そのふんわりした「歩み」と、金粉が指先からまき散らされているのではないか?と幻覚が見えるほどに美しい手指の所作に本当に驚かされました。後日、その強烈な印象をご本人にお伝えしましたらば、「歩み」は、能楽では床をするように強く押して進みますが、琉球舞踊では床をなでるように歩むのですよ。と教えてくださりました。「床をなでるように歩む」という技を言葉では理解出来ますが、自分の身体では全く感覚が掴めません。重心を高く保持して片足ずつに重心移動をするのでしょうか。独特の身体技法が存在しているという事が良く分かります。 

その7 日本伝統の表現:リオ オリンピック閉会式での日本の表現

2016.9.15日放送のNHKクローズアップ現代の番組でリオ オリンピック閉会式での日本のパフォーマンス8分間に関わったクリエーター4人が登場。日本をどのように表現するかという議論についての話が大変に興味深かった。最初の案では、忍者や武士などの登場する予定であったが、最終的には着物などを着ることは止めにして、現代的な音楽、衣装で「目に見えない伝統」を表現する、という立ち位置を取ったとのこと。Perfumeの振付も手掛けているMIKIKOさんが、外国でPerfumeが受ける理由は、映像と音楽、そしてダンスがシンクロする緻密さ、また緻密な動き、揃った動きに外国の人が”日本らしさ”を感じているのではないかと考えたことが大きなヒントとなったそう。
 
閉会式のパフォーマンスは広さから言うと200人のパフォーマーが必要であるところ、予算の関係で50人で乗り切らなければならず、1人1人の動きを大きく見せるためにフレームを動かすことを考え出したとのこと。そのフレームを最先端の映像表現に効果的に用いながら、ダンサー達の動きは、一糸乱れず揃っており、素晴らしかった。また、早抜きの展開は、歌舞伎を習ってとのこと。「今の技術を使って現代的な表現を追及した結果、こぼれ出ちゃっている外国人の人が感じる日本らしさを狙う」という話であったが、こんな日本の伝統の表現方法があるのだ!と目から鱗が出た思いでした。

その8 日本的な表現:東京バレエ団

その7で振付家のMIKIKOさんが、ダンスの緻密な動き、大人数が揃っている動きに外国人が日本らしさを感じるのではないか、と解釈している話で思い出したことがある。東京バレエ団は日本を代表するバレエ団の一つで、海外公演の回数が多い。海外受けしている理由の一つは、今から20年ほど前に、男性群舞のダンサーの動きを緻密に揃えることで、外国のバレエ団に対抗しようとした成果だと聞いた事がある。
 
日本の伝統芸能の世界での群舞の踊りで思い出すのは、都をどり。新作の日本舞踊作品で踊られる群舞の踊りも、いつも良く揃っている。舞踊の世界でなくとも、1人1人が個性を強調するのではなく、皆で心を合わせて表現する。という表現行為は、我々日本人は、学校での体育祭や文化祭の度にすり込まれて誰もが体験しているように思う。
よく揃った踊りに外国の人が日本を感じるという視点は、とても興味深い視点であると改めて思います。

その9 表現に潜む日常性:MIKIKO、椎名林檎

オリンピック、パラリンピック閉会式で日本パフォーマンスも担当した2人の作品を見たり、インタビューを聞いていて、彼女らの作品の大きな核に日常性をどう取り込むか、というテーマがあるのではないかと気が付いた。MIKIKOは、例えば「顎に手をやり考え込むポーズを振付に入れたりして、日常でパフォーマーが行っていたら可愛いだろうな、と思うような動作を取り入れる。だから(振付の業界で)変わっているね、と言われちゃうんですけど」と語っている。また椎名林檎の独特な歌詞は、時に全体としての文脈の意味が通らなかったり、何と言っているのか聞き取れないように歌うような作品もあるが、そのような作品においても日常生活で語られるような言葉のフレーズ「彼女になってみた~い」「結婚してほ~しぃ」などは聞き取れるように歌う。
 
これらのパフォームに潜む日常性は、我々鑑賞者に作品の世界を楽しむのと同時に自分自身の日常を重ねて立ち現わす働きを持ち、体感的に強く印象づける効果があるのではないだろうか。
ところで、この舞台に立ち現れる日常性は、私が伝統芸能の舞台で最も魅力を感じている核となる部分である。

その10 伝統芸能の鑑賞の醍醐味:立ち現れる日常性

その9で述べた舞台表現に立ち現れる日常性について。一般的にはあまり知られていないように思いますが、実はこの部分こそが伝統芸能の存在意義、「型」を用いた表現形式そのものと深く関わる核となる要素ではないか、と私は考えています。
 
ある能楽師の先生は、ここの部分を「スリカワル演技」と述べています。この意味は、決まった「型」を正しく(演者個人の個性を無にして)演じる事によって、却って演者自身の日常性、すなわち人生や哲学が浮き上がって表現される。その効果を最大限に得る為に、能役者や狂言役者は、ひたすらに自己的な表現をそぎ落とし、「型」を追求する。逆説的であるけれども、このような手法を取ることで、却って表現が可能となる幅が大きくなり、時としてとんでもなく大きなスケールでの時間軸や世界観が表現出来たりする。「型」を使って表現する能楽(能と狂言)にはそんな仕掛けが存在しているのです。

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